第二次世界大戦下のスウェーデン, by Wikipedia / CC BY SA 3.0
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ヨーロッパにおけるスウェーデンの位置、1942年 スウェーデン ナチス・ドイツ ドイツの占領地 ドイツの同盟国、傀儡国 連合国および連合国の占領地 その他の中立国 第二次世界大戦下のスウェーデン(だいにじせかいたいせんかのスウェーデン)は、中立政策を維持していた。
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した時、スウェーデンの命運は明らかではなかった。
しかし、スカンジナビア半島に位置するという地政学的条件と、予測不能な事態への現実的な対応、そして1942年以降の積極的な軍備増強により、スウェーデンは戦時中、公式に中立の立場を維持し続けたのである。
戦争勃発時、スウェーデンは1814年のナポレオン戦争の終結とノルウェーへの侵攻以来、1世紀以上にわたり国際関係において中立的な立場を保っていた。
1939年9月の開戦時、ヨーロッパの20カ国が中立の立場をとっていたが、スウェーデンのように終戦まで中立を保つ事ができたのは、アイルランド、ポルトガル、スペイン、スイス、そして、ミニ国家であるアンドラ、リヒテンシュタイン、バチカン市国、サンマリノを加えた8カ国だけだった。
スウェーデン政府は、ドイツや後には西側連合国に有利なように、いくつかの譲歩をし、時には中立違反を行う事もあった。
ドイツがソ連に侵攻した際の1941年6月から7月にかけて、スウェーデンはドイツ国防軍がスウェーデンの鉄道を利用して、第163歩兵師団を重火器とともにノルウェーからフィンランドに送る事を許可した。
1943年まで、休暇のためにノルウェーとドイツの間を移動するドイツ兵が、いわゆるパーミットトラフィックとしてスウェーデンを通過する事が許可されていた。
戦時中もドイツへの鉄鉱石の売却は続いた。
連合国側にとっても、スウェーデンと軍事情報を共有、デンマークやノルウェーからの難民兵士を訓練して、母国の解放に役立てた。
また、1944年から1945年にかけて、連合国がスウェーデンの空軍基地を使用する事を許可した。
スウェーデンの中立政策については、現在も議論の対象となっている。
肯定側は、戦時中、スウェーデンは難民受け入れを緩和し、ノルウェーやデンマークから何千人ものユダヤ人や政治的反体制派を受け入れたと主張している。
一方で否定側は、ウィンストン・チャーチルが言ったように、スウェーデンが「戦争の大きな道義的側面を無視し、自己利益のために双方の陣営を翻弄した」と強調している。
1523年から1809年にスウェーデンがロシアと最後の戦争をするに至るまでの286年の内67年の間、両国は戦争状態だった。
歴史的にスウェーデンにとってロシアは、代を継いだ敵国とみなされていた。
1809年の第二次ロシア・スウェーデン戦争後の講和で、フィンランド全土がロシアに割譲され、スウェーデンの領土はかつての3分の2に縮小した。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、スウェーデンは多くの他国同様に、ストライキや治安の悪化に見舞われた。
劣悪な労働条件に対し、労働者階級が国家に抵抗するようになったのだ。
スウェーデンでは、1908年だけでも約300件のストライキが行われている。
1917年になると、スウェーデンではこれらの事情から新しい政治体制の必要性が明らかになった。
スウェーデンは第一次世界大戦中、中立を保っていたが、中央同盟国に肩入れする傾向があった。
1880年代以降、スウェーデンの社会主義運動は、ふたつの対立する党派に分かれていた。
社会主義革命を掲げる共産主義運動と社会改良主義を掲げる社会民主主義運動であり、後者の規模の方が大きかった。
1917年、スウェーデンでは民主主義のルールが変更され、選挙権所持者の規模が大きくなり、1921年には女性にも投票権が与えられた。
オーダレン銃撃事件、軍が発砲する前に撮影されたデモの写真 しかし、このような改革は、一部の保守派には過激すぎると映った。
民主主義を信用せず、強力なリーダーシップを求めた人々が存在した。
1920年代から1930年代にかけて、スウェーデンでは労使間の対立が続いた。
対立は、1931年、軍が抗議デモに発砲したオーダレン銃撃事件で最高潮に達した。
同年には、約2000人を集め重火器で武装した右翼の秘密民兵組織「ムンクスカ・コーレン」が摘発され、翌年には解散している。
一方、政治的立場の反対側では、ロシ…
5ヶ月も立ってるのに、高評価とコメント0で草w